児玉誉士夫の「児玉」は群馬一帯で活動していた「児玉党」に由来する可能性について。
今日は児玉誉士夫の出自について話していきます。
児玉誉士夫は日本の右翼活動家として知られる人物で、「政財界の黒幕」、「フィクサー」とも呼ばれているほど重要人物です。
RAPT理論でも出てくる「町井久之」や「笹川良一」とも関係があります。
RAPT×読者対談〈第129弾〉日本は在日ヤクザに牛耳られている。(麻生太郎と朝堂院大覚と嵯峨天皇)
以下の記事では、オウム真理教の麻原彰晃と似ていることが暴かれました。
【じげもんの常識をブッ壊せ!!】vol.17-群馬人脈の最重要人物・笹川良一 中国共産党と結託し、日本にユダヤ人国家建設を目論む
出生についてWikipediaで調べたところ、以下の画像のように書かれていました。
父の旧姓は山田で、上杉家の家臣・山田彦右衛門の子の兵太夫から丹羽氏に仕えていたそうです。
児玉の姓を名乗るようになったのは、誉士夫の父の代に陸奥国二本松藩(福島県)の御典医の児玉家から望まれて養子に入ったときからだそうです。
私は児玉の姓を聞いた時に、児玉党のことが頭に浮かびました。
児玉党は武蔵国児玉郡を中心に、秩父や上野国(群馬県)で活動していた武士団です。
児玉党の氏族としては以下の氏族がいます。
この中の福田氏は、中国とズブズブの福田康夫の氏族だそうです。
(以下こちらより転載)
児玉党福田氏
児玉党の流れを汲み、関東全域に分布している。
福田氏は古河公方足利氏に仕え、古河を根城に流通活動を展開する一方で、古河公方御料所の代官を務めている。後に豊臣秀吉の配下とされる福田惟康が関ヶ原の戦いの後に武蔵国北部に土着し、福田陣屋を築いている。
上野国の福田氏は、関東管領山内上杉氏の家臣である倉賀野行政に仕え、「倉賀野十六騎」として倉賀野城を守った。群馬県出身の福田赳夫元首相や福田康夫元首相はこの流れの福田氏である。
(転載ここまで)
話を戻します。
先ほど児玉誉士夫のWikipediaで陸奥国二本松藩が出てきました。
それで二本松藩について調べてみると、1643年から明治の廃藩置県まで丹羽(にわ)氏が治めていました。
さらに丹羽氏についても調べてみました。二本松藩を治めた丹羽氏は「児玉丹羽氏」だそうです。
上の丹羽氏のWikipediaの起源を見てみると、
(ここから転載)
桓武天皇の皇子良岑安世の末裔(まつえい)で、良岑朝臣を本姓としているが、太田亮は『姓氏家系大辞典』において、これを系譜仮冒とし、多臣の一族である尾張丹羽臣(丹羽県主)の後裔とする。『寛政重修諸家譜』によると、児玉惟行を祖とする武蔵国児玉党の末裔とし、尾張国に移った後に本姓を藤原朝臣に復したとされるが、これは本貫である尾張国春日井郡児玉村の地名を児玉党に付会したものであると考えられている。丹羽長秀以前の系譜ははっきりしていないが、代々尾張国守護の斯波氏に仕えていたらしい。
(転載ここまで)
江戸時代の『寛政重修諸家譜』では児玉党の末裔とされていたそうです。
そして、丹羽氏は元々「斯波氏」に仕えていたようです。
(丹羽長秀のWikipediaから転載)
織田家臣時代
天文4年(1535年)9月20日、丹羽長政の次男として尾張国春日井郡児玉(現在の名古屋市西区)に生まれる。丹羽氏は元々斯波氏の家臣であった。
天文19年(1550年)より、長秀は織田信長に仕えた。
天文22年(1553年)、梅津表の合戦にて19歳で初陣を飾った。
弘治2年(1556年)、稲生の戦いでは信長方に付いた。
永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いでは今川義元の攻撃部隊には入っていないものの、従軍はしている。
『信長公記』などから斎藤龍興との美濃国における戦いで台頭したと考えられ、永禄11年(1568年)に足利義昭を奉じて信長が上洛した際、南近江の六角氏征伐で箕作城を攻めるなど武功を挙げた(観音寺城の戦い)。
姉川の戦いの直後から、信長は8ヶ月におよぶ近江佐和山城の包囲を続けていたが、元亀2年(1571年)2月24日に城将の磯野員昌が開城勧告を受けて退城すると、代わって長秀が佐和山城主となった。
(転載ここまで)
斯波氏の家紋は以下の画像になります。
この家紋は群馬一帯で活動していた横瀬氏や、室町幕府の将軍家の足利氏(斯波氏と同族)と同じ家紋です。
このように、丹羽氏は群馬一帯と縁のある氏族に仕えていたのです。
そのことから考えても、丹羽氏が児玉党の末裔であったとしてもあり得なくないでしょう。
ここまで丹羽氏と児玉党の関係についてお話してきました。
そうなると、二本松藩の御典医の児玉家も児玉党である可能性も出てきます。
ちなみに武士の御典医は武士に準ずる身分だったようです。
御典医(ごてんい)とは、典薬寮に所属する医師のことであり、単に典医ともいう。転じて、江戸時代には将軍家や大名に仕えた医師もこの名称で呼ぶようになった。この場合、御殿医と表記することもある。
典薬寮医師という意味での御典医は、名誉職であった典薬頭を除き、実際に天皇の治療に携わる医師のことを指した。近世では優秀な民間医が典医に登用されると同時に官位を与えられ、地下人の身分となるケースがほとんどを占めた。
一方、武家の御典医は、将軍や藩主と身近に接する立場で、武士に準ずる身分であった。なお、幕府の御典医は奥医師、藩のは藩医と呼ばれていた。
(転載ここまで)
武士に準ずるレベルということは、御典医を選びだす際に血筋を考慮していたとしても不思議ではないでしょう。
ここまで出てきた話を整理すると、
児玉誉士夫の先祖→丹羽氏→児玉党→群馬
ということになります。
児玉誉士夫が「フィクサー」や「政財界の黒幕」と呼ばれていたことや、笹川良一とつながっていることから考えても、群馬人脈と同ルーツである可能性はあり得る話でしょう。
今回は仮説でしたが、最後までお読みいただきありがとうございました。