神様の愛を感じること

今日は神様の愛を感じたことを書きます。

2016年11月から何度も断絶しながらも、そして眠くなりながらも明け方の祈りをしてきました。

明け方の祈りを始めて1か月がたった時に明らかに聖霊の力を受けました。体がどこまでも軽く、10分小走りしてもその軽さは全く消えませんでした。

そしてどんなどん底からも何度も這い上がらせてくださいました。私は実はかなりの不安症なのです。その大きくなってしまって、収集できるかなというところで何度も助けられました。

この不安症は小学校の時にはもうあったと思います。何か不安を解消できる確定的なものがないと完全に払しょくできませんでした。「明日にはなんとかなるさ」という生き方に対しても恐怖を覚えていました。不安を消す根拠がないからです。

その不安を消すために本を読んだり調べものをしたりして時間を過ごしました。ゲームもやりました。でもその世界から一歩出るとまた再燃するのです。

そうこうしているうちに高校を卒業しました。その数日後にRAPTさんの一般記事に出会いました。

一般記事の内容は言うまでもないですが、毎日が新しいことだらけで更新されるのを楽しみにしておりました。

有料記事は配信開始から2か月遅れて読み始めました。最初はなかなか気力が起きなかったのですが、タイトルに惹かれて試しに読んでみようとなったところから始まりました。

とはいえどなかなか実践にまで至れていませんでした。今でも足りないことだらけです。自分が変わったつもりでいることを感じさせられます。

話が逸れました。神様の愛はどこまでも包みこまれる感じです。特に苦しくてなかなか答えが出ないときに受けると泣き出します。そして泣きながら悩みをつぶやいています。

そのときの温かさや熱は私の心に深く来ます。そうするとさらに涙が出てきます。あきらめかけていたことも、また取り組もうという姿勢にさせてくれます。

涙にはいろいろあります。うれしい涙、悔しい、どうしたらいいの、などなど…。

愛を受けるとなんだか申し訳ない気持ちであふれることもきっとあると思います。私も幾度もあります。愛される資格なんてあるのかと。そのようなときには以下の記事のリンクをお読みになってください。

RAPT有料記事120(2016年11月14日)神様を愛する資格があるのは誰か。本当の愛とは何か。なぜ主の前では多くのものを捨てなければならないのか。

文章形式で書かれていますが、どこまでも愛の深さが伝わるものです。ぜひ読み通してみてください。